どうして坐禅をはじめたの?

Confluence Zen Centerの摂心では、基本的に私語はしないことになっています。なのですが、最終日前日の夜ご飯のあとお茶を飲んでいたら、これまで毎日顔を合わせて一緒に坐ってきた参加者どうしがなんとなく親しい気持ちになって、「どうして坐禅をはじめたの?」という話になりました。こういう話がそれぞれの人の人生の深いとこに触れないわけがなくて、興味深く聞きました。それぞれにとって大事なものを、こんな風に自然にシェアできたのは、とてもよかったです。


Kさんの場合。
ボリビアのカフェで給仕をしていた尼僧さんに、坐禅をしませんか?というお誘いの名刺をもらった。そのころ、いろいろ悩んでいたKさんは坐禅に心惹かれるものがあって参加してみたのだけど、じっと動かず坐り続けるというのがとても苦痛で、それきりで止めてしまった。その後、(動いてもいいという)ヴィッパサナー瞑想のリトリートに参加したときに、最初に尼僧さんに教えてもらった動かないという方法が一番よかったのではないかと気がついた。そこで、再度、尼僧さんのもとに通うことにした。


Pさんの場合。
仕事で中国にしばらく滞在することになった。友達もなく、行く場所もなく、そんなときに坐禅をするお寺が門戸を開いているのを見かけて入ってみたのが、坐禅に出会ったはじめ。


Jさんの場合。
化学と植物学を専門とする妻の本棚にあったのが、鈴木大拙の禅入門(妻は大学のころにこれを読んだそう)。そこから禅に触れて、仏教を信仰するわけではないけど、納得いくところが多いと感じた。それから坐禅会に参加するようになった。


Rさんの場合。
ミュージシャンのRさんは、バーでの仕事も多く、場所柄もあってアルコール依存症になってしまった。アルコール依存症克服の自助団体に参加してみたものの、そこでの自己紹介がいつも「こんにちは、アルコール依存症のRです」から始まるのがとても嫌で(俺はアルコール依存症だぞ、と自己暗示をかけてるように感じた)、別のものを探していた。坐禅や瞑想が依存症克服の助けになるかもという話を聞いて、試してみることにした。そして、不健康なアルコールの習慣を、坐禅に置き換えようとした。
(Rさんについては、ちょっとがさつで注意の足りないところがあるけど、まじめにやろうとしている人、という印象だったのだけど、この話を聞いて納得。)


こけぐまの場合。
高校生のころ、自意識過剰が過ぎて傷つくことが怖くて、人と話すことができなくなった。強くなりたいと願ったこけぐまは、人生の意味を知ることができれば、自分は強くあれるのではないか、と思うようになった。大学に入って、ある哲学者が人生の意味について述べた言葉に出会い、意味ははっきりわからないながらも真実の匂いを感じて、それが一体どういうことなのかを納得するために卒論を書いた。そのころ、インターネット上で説法をしていた禅僧を見つけて、自分が納得したのと同じことを語っている人がいると知ったけど、実際にその人に会いに行ったのは、その二年もあと。初めて踏み込んだ深い人間関係の中で(平たく言えば恋人ができた)、すっかり自分を見失ってしまって、途方にくれたあとのことだった。坐禅をしてみて、自分が一人であったころの感じを思い出した。そして、人生の意味について頭で納得することと、身体で実際にそれを生きることは、まったく別のことだったと気付いた。それが坐禅をするようになったはじめ。


こけぐま