凪のような時間

 この時期、比較的平穏にすごしている。もしかしたら、一年で一番静かにすごしているかもしれない。それなりに様々な仕事があるとはいえ、自分のペースでできることばかりで、関係各所からのメールの量もがくんと減る。名作『動物のお医者さん』で菱沼聖子が「晴れ晴れとした寂しさ」と呼んだ時間を心から味わっている。

 こんな「凪のような時間」を多少の寂しさと共に享受することが、少し前、二十年くらいまではもう少し頻繁にあったように思う。そんな週末が多かった。無為をかこつ、というわけではないが、「あれをしなければ、これをしなければ」と思わせる差し迫った事柄もなく、むしろ「何をしようかしら」と悩むような時間すらあった。

 今はそうしたことは珍しくなった。週末から、「けだるさ」と「さみしさ」が入り混じったような印象が奪われて久しいように思う。週末に行われる催し物(これは、職業上のものも含む)が増えたこともあろうが、大きな理由はメールの生活への介入があると思う。よしあしの問題は別にして、少なくとも私の業界では、土日も結構仕事関係のメールが飛び交う(相互の関係は対等です)。読むとついついレスポンスをしたくなってしまうことも多いし、忘れないように早めに、ということもある。そんなこんなで気ぜわしい週末になってしまうことも多いわけだ。その結果、週末に、「凪のような時間」の「けだるさ」と「さみしさ」を覚えることは少なくなったが、その代わり、失われたものも多いような気もする。日常の仕事における注意深さ、というのは、いつも維持できるものではない。やはり、静かな時間の休養があってこそ、再び活力を得るもののように思う。

 同僚には、土曜日はともかく、日曜日には一切メールを開かない人がいる。以前ユダヤ教徒の人と話していたら、厳格な信徒は、安息日には移動手段も利用しないし、コンピューターのスイッチも入れないという(スマホはどうするのだろうか?)。それはそれで、「休むべき時には休む」という一つの大切な知恵なのだろうとも思う。

 この3月末、一瞬訪れた静かな時間にはそんなことを考えた。適切な時間の用い方だったように思う。今日から新年度だが、この新たな年度、しっかりと休むべき時に休み、あの「けだるさ」と「さみしさ」を然るべく味わう、ということも、目標にしてもよいとも思う。

 

 しかし、書いていて思ったが、「凪」という文字、形も響きも、美しいですね。

 

M&M's

 

追記:こう書きながらなんだが、コロナ禍状況においては週末の出張が減ったので、以前よりは、「凪のような時間」を享受できる機会が増えた。もっとも、Zoomを用いた催しが一定程度入ってはくるのだが(それはそれで、ありがたくもある)。