フランス第二共和政期の国歌

※ かなり細々した話で、半ば自分のための備忘録です。皆さま、お読み捨てください。なお、三日遅れて7月17日に書いています。

 

 7月14日と言えばフランス革命記念日。様々なパレードが行われ、国歌「ラ・マルセイエーズ」が演奏される。実際には1792年4月に作曲されているこの曲を、1789年7月14日の出来事を祝う祝祭で演奏することには微妙なアナクロニズムがある、と言えなくもないけれど、フランス革命全体を祝うのだと考えれば、おかしくはない。

 ところでこの曲は、フランス革命期こそ様々な場面で演奏されたが、第一帝政期、復古王政期、第二帝政期などには総じて抑圧されている。七月王政を率いたルイ・フィリップは、当初こそ「ラ・マルセイエーズ」の唱和に加わる振りをしたそうだが、その後は遠ざけたかのように見える。民衆の自由を謳うこの歌が独裁的な権力と相性が悪いことは、誰にでもわかる。

 だから、逆に言えば、革命的な状況ではこの曲が呼び出されることとなる。七月革命しかり、パリ・コミューンしかり。七月革命に際してベルリオーズがこの曲に華麗なオーケストレーションを施したことはよく知られている。

 

 ところで、1848年の二月革命の時はどうだったのか? 二月革命の直接の報告は読んだことがないのだが、フローベールの『感情教育』であれば、当時の記録としての意味を持つだろうと想像して、簡単な検索をかけてみた。すると、確かに二月の革命勃発時に「ラ・マルセイエーズ」を歌う群衆の描写がある(ちなみにこのシーンは、革命をそっちのけでようやく逢引きを取り付けたアルヌー夫人を待ち焦がれるフレデリックの描写と代わる代わる描かれており、映画的な効果がある)。

 ところでその中で、「「ラ・マルセイエーズ」と「ジロンド派の歌」を歌いながら」という記述が出てくる。この「ジロンド派の歌」(Le chant des Girondins)というのは知らないな、と思いながら検索をかけてみると、第二共和政期の国歌(1848-1852)とのこと。第二共和政期の国歌というのは気にしたことがなかったが、なるほど、そうだったのか。

 wikipediaのフランス語版の記事を見ると、『三銃士』で知られるアレクサンドル・デュマの小説『赤い館の騎士』(1846)を舞台化した、1847年8月初演の同名の戯曲の最終幕にて出てくる歌とのこと。作曲は、(これまた知らない人だが)、アルフォンス・ヴァルネ(Alphonse Varney, 1811-1879)という人物によるもので、リフレインの部分のみ、「ラ・マルセイエーズ」の作者、ルジェ・ド・リールの作品から取られているそうだ。

 

 しかし、不思議な感じがする。

 まず、『赤い館の騎士』は、未読だが、粗筋は牢獄に囚われの身であるマリー・アントワネットを救おうとする計画を描くもので、どちらかと言えば王党派的な作品に見える。いくら「ジロンド派の歌」とはいえ、そうした王党派的な作品から出てきた歌を共和派が歌ったのだろうか? (もちろん、この私の推測には間違いがあるかもしれないが)

 もう一つ、第二共和政はなぜ「ラ・マルセイエーズ」を国歌としなかったのだろうか? やはり保守派が反対したのだろうか? そう考えれば筋が通るような気もする。当時の議会の議事録などを見る根気もないけれど、そのうち、「ジロンド派の歌」が正確には1848年のいつ国歌となったのか、その採用の過程で何かしらの議論はあったのか、いずれ調べてみたいところでもある。

 

M&M's

 

注記1:かなり細々とした話なのですが、この件を巡る情報は少なくともネット上にはないようなので、あるいはどなたかの役に立てばということで、記しておきます。

注記2:後日、書誌情報を加え、あるいは記述の訂正を行うこともあるかもしれません。