図書館の話(2)

 中高一貫校に通っていたので、この時期の図書館体験はまとめて記しておく。
 通学に一時間ほどかかっていたので、電車内ではよく本を読んでいた(スマホがなかったことに、心から感謝している―告白すれば、週刊誌やら漫画雑誌も実によく読んでいたが)。小学校の終わりの時期に通っていた図書館には、中学進学後も通い続け、通学中に読むのに簡便な文庫本をよく借りていた。
 最初の頃は、ポプラ社のホームズシリーズの延長だっただろうか、推理小説が中心だった。アガサ・クリスティのものは相当読んだのではないかと思う。エラリー・クィーンについては、いくつかは読了したが、よくわからない、というか、推理小説としてのカタルシスを十分に味わうことができなかったことを、漠然と覚えている。翻訳に問題があったためか、私自身の読書力が欠けていたためか、これについては判断がつかない。
 日本の推理小説もまあ読んだが、和久俊三の法廷推理ものをよく借りていたのではないか。このころは、漠然と法曹関係の仕事に自分が進むのではないか、などと思っていた。

 さて、きっかけは覚えていないが、中学の途中から毛色が変わり、遠藤周作の作品を実によく読むようになった。プロテスタントではあるが、教会に通い続けていたことの影響もあったかもしれない。「図書館で借りた本はよく覚えていない」と前回書いたことを裏切るようだが、『白い人・黄色い人』や『海と毒薬」、『沈黙』など、粗筋やいくつかの印象的なシーンが、心に残っている(再読したこともあるかもしれないが)。『わたしが・棄てた・女』なども、中学生のくせに生意気だが、その心理描写に感嘆しつつ、自己嫌悪に近い感覚と共に読んだ。主人公のエゴイズムを自分の中にも見出したからだろう。しかし、どの作品も文庫だから買えばいいのに、すべて図書館で借りて読んだのだから、ケチである(中学生だったことも大きいだろうけれど)。
 恐らくは、この遠藤周作への関心、というのが大きく影響したのだと思うのだけれど、その後、フランスの小説に少し関心が向き、スタンダールやらモーパッサンやらはまあまあ読むこととなった(フランス文学を系統だって読もうとして『クレーヴの奥方』を借り、当然のごとく挫折したことを覚えている―あれは十代半ばの男子学生が読む代物ではなかろう)。いつか、メリメの短編が面白い、と書いたことがあるけれど、メリメ『怪奇小説傑選』(岩波文庫)も、このころに、図書館で借りて読んだのではなかったかしら。今は絶版で手に入らないのだから、やはり買っておけばよかった。
 ところで、私の通っていた中学高校は、敷地内に同系列の大学もあったので、高校の頃は、大学の図書館を利用することも増えていった(女性の学生がいることを喜ぶ気持ちがあったことを告白します)。こちらの図書館では、恐らくは遠藤周作の著作を通じて知ったのであろうが、ジュリアン・グリーンを借りて読むこととなった(公立の、しかも分館の図書館では、ジュリアン・グリーンなどはなかったから、大学図書館を利用できたことはありがたかった)。何がわかったなどとは言えないのだが、全集はほぼ全て読んだのではないだろうか? あの熱は何だったのか、今でもよくわからない(最近『モイラ』が岩波文庫で出たので、過去の思いを確かめたく購入済だが、まだ取り掛かっていません)。
 日本人のものを読む場合でも、フランス系に縁が深い人、ということで、地元の図書館では辻邦生のものを相当に読み、大学の図書館では、森有正の全集をほぼ全部読んだように思う(なお、森有正の弟子の方に、後日、短期間だがものを習うことがあった―もっと色々と習うことができたはずだったが、そうした機会は逸してしまった)。もはや辻邦生にせよ森有正にせよ、読む人はほとんどいないのだろうか? 私もこの人たちの文章を全く読まなくなって久しいが、それでも、彼らの書に触れるならば、当時の若さが多少は蘇るのだと思う。
 
 こうした筋以外では、大江健三郎の名前は気になり、いくつか図書館で借りだして読んだことを思い出す。とはいえ、あれはもっと系統的に読めばよかった。短編のいくつかを読んだ後、『洪水はわが魂に及び』を読んだり(あの小説がわかったとは、とても思えない)、『新しい人よ目ざめよ』を読んで、ブレイクの詩とはどんなものかしら、と理解しようとするなどしていた。記憶に残っているのだから無駄な読書ではないが、もう少し系統的に読めばよかったと思う。

 件の大学図書館を巡る思い出としては、デリダの『カフカ論ー「掟の門前」をめぐって」を手に取ったことが、なぜか記憶に残っている。「掟の門前」の謎めいた抽象性と、全く歯の立たないデリダのテキストの難解さ(というか、歯が立たないことへの苛立ち?)が、あの瀟洒な装丁と共に、脳裏に残っている。

 その他、この時期の図書館を利用した無茶な読書としては、ドストエフスキーがある。なぜああしたものを読もうと思ったのかは、きっかけはわからないが(そうしたものを読んだ方がよい、というプレッシャーがあった、最後の時代かもしれない)、とにかく間違いのない記憶は、中学校三年生の大みそかに『罪と罰』を読了したことである(夜中、皆が寝静まった後も読み続けて読了した ―暗い中学生である(?))。これの勢いで高校一年の時に、『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』は、いずれも図書館で借りたもので読了した。もっとも今から考えると、とにかく「読んだ」という既成事実を作りたかったのだろうし、何かが残っているか、全く心もとない。もっともそうした「見栄」がきっかけで得られるものもあろう。

 

 最後に、図書館にまつわる他愛のない話。
 高校三年生の夏から、小学校から通っていた公立の図書館で受験勉強をするようになった(あまり望ましくないことではないが、禁止はされていなかったので、お許しを)。すると、小学校の同級生のK君と再会し、その伝手で、高校の違う十人程度の男女混合のグループができた。私自身、その中に恋愛対象はいなかったのだが、男子高に通う身としては、そうして自然にできる女性の友人というのは、ありがたいものだった。ところで、このグループの中に、国立を受ける友人はおらず、皆、推薦や私立大学への合格などで進学先を決めて図書館に来なくなる中で、私は最後まで一人、図書館で勉強していた。あれほどの高校生で溢れていた図書館の閲覧室が、日を追うごとに人気のない空間となっていくのは、あれはあれで見物だった。比較的「孤独」には強いほうだと思うけれど、きっかけの一つはあの時の経験かもしれない。いや、あの程度のことを「孤独」と呼ぶのは、ナルシシズムがすぎるだろうか。

 

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