図書館の話(3)

 大学に進学してからは、やはり大学の図書館を主に利用するようになる。もっとも、この時期の読書については、あまり明確な記憶がない。「何を読んだ」という記憶が薄いのだ。オーケストラ活動やアルバイトにうつつを抜かし(あとは麻雀)、読書量が減っていたことは間違いない。あの頃、もう少し系統だって読書をしていたのなら、と、反省する思いは強いが致し方がない。人生に取り返しはつかない。
 再び読書が生活の中心となるのは、やはり大学院に進学してからだろうか。学生オーケストラは引退し、一緒に麻雀をしていた友人も社会人となり、共に卓を囲むことも減る。一人の時間が増えれば、自ずと読書が生活の中心になる。
 実際にこの時期に利用していたのは、私の住む自治体の中央図書館だった。もちろん、大学の図書館も折に触れて使うのだが、どちらかというと自分の仕事のためであり、趣味の読書となると、公立の普通の図書館の方が使い勝手が良かった。借りることのできる冊数が八冊と多かったこともあるが、加えて、それなりに立派な視聴覚コーナーで、備え付けのLDやDVDを観賞できたことが大きい。この時期、私は、週のうちのかなりの日、朝、件の図書館に行き、自分の仕事と趣味の間の書物などを適当に読み散らかした後、視聴覚コーナーで、有名なオペラを片端から観ていったのだった。私は決してオペラ・ファンなどとは言えないが(いわゆる「オペラ・ファン」の知識には舌を巻くことが多い)、オペラについて一応の知識があるのは、この時期の経験のおかげであろう。とはいえ繰り返しめくが、読書はこの時期も系統だったものではなく、そのためか、何を読んでいたのか記憶が曖昧となっている(相当に読んだことは間違いないのだが―ああ、書いていて思い出した― ドナルド・キーンの『日本文学の歴史』(現在、中公文庫から『日本文学史』として出ているもの)は、通読したように思う―時間があったからできたことだ)。

 もっとも、この時の経験から、勤め人の方のために、半年かできれば一年の、図書館に通うための休暇があれば、と夢想するようになった。仕事と関係のない系統だった読書こそが、人の魂を豊かにするに違いないと確信するからだ。健康寿命がここまで延びた(そして、さらに延びる可能性がある)現在、「人生の道の半ばで」魂を養う時間を持つことは、広い意味で望ましいと思う。恐らく実現はしないだろうが、「望ましい選択肢」として、こうした制度があることを夢想する程度でも、心を豊かにしてはくれまいか。

 

M&M's

(遅れに遅れて11月23日記述)