図書館の話(6)

 図書館にまつわる悪癖としては、どんなものがあるだろう? 閲覧席での居眠りは、明らかに悪癖に入るだろう。高校生、大学生のころは時にこの悪癖に耽ったが、最近はとんと無くなった。そもそも盗難が怖い他、私は案外といびきをかくらしいので、閲覧室でハッと目覚めて、「いびきをかいて人に迷惑をかけたのでは?」などとびくびくしたくない。
 閲覧席での友人同士のおしゃべりもどう見ても悪癖に数えられる。しかし、これ以上に罪深い(?)と思うのは、カップルでやってきていちゃいちゃすることである。真剣に本を読んでいる、あるいは受験勉強に打ち込んでいる身には、なかなか刺激的である。もちろん年をとれば、若い人の振る舞いを暖かい(生ぬるい)目で見るようになったが、高校生の頃などは、「カップルで来て勉強に集中できるんか、ケッ!」と、なかなか黒々としたことを思っていた。僻みである。何にせよ、書きながら悲しくなるが、この悪癖は犯していない自信がある。

 

 図書館に固有の悪癖としては、返却が遅れる、というものがあろう。小学校時代、通っている図書館が遠かったためか、しばしば返却が遅れ、司書の方に注意を受けていた。しかしこれ以上に嫌だったのが、母が返却期日が過ぎた本を返すのを、私に命じることだった。そうすると、母の本とはいえ、司書の方の注意は私が受けることになる。「何で僕が母の代わりに怒られなければならないのだ」と結構反抗したが、いつもなんだかんだで私が返すことになっていた。いい年をして今でも母には様々複雑な感情があるが、その一因はこの点にあるのだろう。
 返却が遅れる理由には、もちろん自分のだらしなさがあるのだが、そもそも本を一種の「財産」のように思っているというのもある。返さなくてもよい(←間違った考えです)財産をもとに戻すのが、もったいような感じなのだ。もう少し細かく言えば、「あと一日手もとに置いておけば、読むのではないか」という思いも強かった。いや、本を返すのが遅れるのは、大半はこうした心理によるものと思う。
 もっともこの点は、ある程度年をとって、「期日までに読まなかった本はとにかく返す」という当たり前の習慣を身につけてから、かなり解決した。絶対に、とは言わないが、本を期日までに返すようになったわけだ。そればかりか、ネット上で確認して、今借りている本について予約をしている人がいれば、期日より早く返すように努力するようにもなった。これは「成長」と言って良いだろう。

 もっとも、本を一種の「財産」のように見做してしまうことに由来する悪癖はもう一つある。私は三つほどの図書館を使っているが、たいていどの図書館でも、貸出冊数の限度いっぱいまで借りている。書くと恥ずかしくなるので具体的な冊数は記さないが、相当数であり、どう見ても読み切れない冊数を借りている。しかし、限度いっぱい借りていないと、何か損をしてしまう気がするのだ。手に入れることのできる財産をみすみす逃している気がする。だから、もちろん必要であったり、強い好奇心に促されて借りる本も相当数あるけれど、図書館に行きそうした本を探した後は、「残りは何を借りようか」と好奇心を刺激する本を探し回るのである。
 もちろんそうした振る舞いによって、数多くの書物と出会いそれなりに多くのことを学んできたのだから、必ずしも悪いことは言えない。しかし、図書館の理念からすれば、これはやはり「悪癖」なのだとも思う。

 と言うのも、図書館の本は、できるだけ書架にあって多くの人の目に触れる機会がある方が望ましいからだ。だから、予約がされていない本であっても、制限回数以上の延長はできないし、例えば私が地元の図書館のA分館で、B分館から届けてもらい借りた本は、たとえ予約が入っていなくても、一度はB分館の書棚に戻さなければならない。予約が入っていない本についてもこの原則を適用するのは、無駄といえば無駄かもしれないが、この理念はやはり尊重されるべきだろう。
 さて、改めて、この理念からするなら、「制限冊数一杯まで常に借りる」という私の悪癖は、控えられるべきだ。読めるかわからない本を中途半端な好奇心から借りることで、誰か別の方と件の本との「出会い」の機会を奪っているのかもしれない。実際のところ、「制限冊数ぎりぎりまで借りる」というこの習慣に、過去に疑問を抱いたことはなかったし、実は今後も変えるつもりはないのだが、それでも多少の後ろめたさは抱き続けることになりそうだ。
 なお、この「図書館の本は多くの人の目に触れる機会があるのが望ましい」という理念(正確な説明かは心もとないですが)については、マンガ『税金で買った本』で学び、意識するようになった。

 

M&M's

(12月3日記)