終わりよければすべてよし

 思い返すと2023年の最初はとにかく大変であった。「大変さ」の内実を書き始めると怒りがふつふつと湧いてくるし、読者の方にとっても気持ちの良いものではないので、記さない。

 

 とはいえ、後半は良いことが続いた。私個人としては、来年に向けての仕事の下準備が相当進んだし、年末には数年ぶりに京都を訪問できた。12月15日の記事にあるように気管支炎になってしまったけれども、「一病息災」と納得もできる。

 娘もファゴットという新たな楽器を始めて部活を楽しんでおり、小学校時代とは違って中学校では教師に恵まれ、さらに、年齢としては早い段階で、英検準2級を取得できた。

 そして、これがメインなのだが、家人がとある資格試験に合格した。家人は以前にこの資格のある級を持っていたのだが、さらに上位の級を取得したのだ。英検を例にすれば、以前から準1級を持っていたが1級に合格した、といった感じで捉えてください。

 私が言うのも何だが、難関の試験で簡単に合格できるものではない。勉強を独学で始めてから三年強となろうか。日々努力する姿を見ていただけに、我がことのように嬉しく、また敬意を覚えている。ちょっとせこいことを書くと、年をとっても通用する資格なので、私、引退した後は「髪結いの亭主」になれるかもしれない。もっとも、家人に「これで僕たちの老後も安心だね」と言ったら、「なんであなた、老後も私と一緒に暮らせると思い込んでいるの?」と返されてしまった。恐ろしい・・・

 

 ところで、資格については、事情をよく知らぬのにいい加減な批評をする人がいる。「英検」を例とするならば(あくまで「例」で、家人がとったのは別の資格です)、英検準1級を持つ人に、「英検は1級じゃないと意味がないよね」と言う人がいるのだ。家人は、折々この種の発言に不快な思いをしてきた。その不快さはよくわかる(英検を「例」にするならば、私と結婚した時家人は「英検準1級」を持っており、もちろん「英検1級を目指したら」という話はしたが、「準1級」を持っているだけでも十分に立派であろう)。なぜ、事情を知らぬ人がこのような発言をするのか? 自身の品性の低さを露わに示すことにしかならないのに。充実した人生を送る人に対する嫉妬であろうか? いやいや、こんなふうに書いていくとこちらの品性が疑われてしまうので、ここでやめる(もう遅いか)。

 もちろん、ちょっとした資格をとっただけで鼻高々になっている若い人に「上には上がいるよ」と伝えることが必要な場合はある。英検3級をとっただけで(まあ、立派は立派だが)、周囲に自分の英語力を誇る中学一年生がいるようだが、そうした生徒に、謙虚であることの重要性を説くことには意味もあろう。しかし、社会人が自分のキャリア形成に中で取得した資格については、まずはそれを祝福するのが礼儀ではないか。もちろん、自身の資格を過大に評価して自慢する人もいようが、そういう人を裁き判断するのは、社会であり就職試験などであって、私たちではない。

 とはいえ、世の中にはそうでない人も多い。もちろん家人や私は、他の人については「英検準1級」を持つ人の努力と能力を寿ぎたいと思うが、世の中には、事情も知らぬのに、「英検は1級じゃなければね」と平気で言う人も多々いる。これを変えることはできない。そうであるならば、そうした人々に黙っていただくには、「英検1級」を取得するのが早道なのである。妻は今回、当該資格を取得したことで、そうした無神経な発言を封じられるようになったわけだ。それは、合格の副産物に数えてよいだろう。もちろん、自分の人生と力に自信を持つことができたこと、これが最大の喜びであり、意義ではあるが。

 

 過日、件の試験の合格通知が届いた(Webでは確認していたが)日に、ちょうど、我が家族を心にかけてくださっている方々にお招きいただき、忘年会めいた一夜をすごすこととなった。この方々は家人の受験もご存知だったので、合格を報告できた。嬉しい偶然である。人付き合いが決して多くはない家人だが、この日は、心暖かい方々に祝福をいただくことができた。2023年はまさに「終わりよければすべてよし」という年になったのだった。

 

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