気管支炎になった話

※ 遅れに遅れてクリスマスに書いています。よい意味で忙しかったのです。

 

 少し前のことだけれど、気管支炎になってしまった。

 11月頭から酒席が続き、それだけならよかったのだが、11月某日、知人の家で呑んだ後に朝まで眠り込んでしまった。ちなみに、恐らくは結婚後初めての無断外泊。幸い知人が家人もよく知る人であり、事情を察するところもあったので比較的簡単に許してくれたが、心配をかけて申し訳ないことをした。

 ところでそれから数日すると、どうも調子が悪い。喉に微妙な違和感がある。この日はどうしても外せない会議があり、そちらに出席したのだが、そのためか、さらに体調が悪くなった。この日は会議でご一緒する方に酒席に誘われていたのだが、そちらはお断りして早々に辞去した。体調はその後も悪化し、お世話になった方を偲ぶ会があったのだが、そちらも欠席、たまりかねて近くの耳鼻科に行ったところ、「典型的な気管支炎ですね」と言われ、抗生剤を処方されることとなった。私は極力抗生剤は拒否するようにしているのだが、今回は服薬したほうがよさそう、ということで素直にこの薬をとっていたら、大体五日くらいで体調も戻ってきた。風邪症状で苦しむのはコロナ以前以来だから、四年ぶりということになろうか。体が風邪に慣れていない、といったこともあったのかもしれない。

 

 この気管支炎で残念だったのは、東京からの客人からの会食をキャンセルせねばならなかったこと。半ば私と会うためにこちらに来てくださったのに申し訳ない限り。この方とはコロナの最中はZoomを介して何度もお話ししたとはいえ、直接お話しするのはほぼ四年ぶり、となるはずだっただけに、残念なことである。

 もっとも、自分は強運かもしれない、と思うこともあった。私は木曜日に仕事が集中しているのだが、この時はちょうど勤労感謝の日(11月23日)にあたり、仕事に穴をあけずに済んだ。こういう運はあるらしい。

 

 加えて、「一病息災」のようなところもあった。

 まずは、お酒を全く呑まず、規則正しい生活になることがある。抗生剤を服薬している最中は、食事の時間にも気を遣う。

 加えて今回は、PCに向かう時間が減った結果、ここ数年悩まされている眼精疲労と肩こりが少し和らいだ。これは予想していなかっただけに、ちょっと嬉しい効用であった。

 世には様々な病があるので、「一病息災」という言葉を用いる際には注意が必要と思うが、それでも、この言葉は、しばしば真実であるように思う。あるいは、この言葉が真実になるように私たちが心掛けるべき、と言うべきか。

 

M&M's

図書館の話(7)

 前回『税金で買った本』に触れたけれど、これはなかなか優れた漫画と思う。フィクションなので夢物語めいたところもなくはないが、総じて図書館の「リアル」をよく描いているのではないか。主要登場人物に、ちょっととんがった高校生を持ってきたのも成功の理由だろう。
 図書館を舞台とした漫画というと、他にもいくつか浮かぶ。
 すぐに出てくるのは、児童書を扱う私立図書館を舞台とした『図書館の主』だろうか。こちらも少々現実離れしたところはあるような気がするが、全体として、様々な児童書の優れた紹介になっている。数年前に全巻揃え、紹介されている本をいくつか子どもと読み、二年ほど前だっただろうか、お子さんが幼稚園年長くらいになった同僚の方に、「よかったら受け取ってください」とお渡しした。
 他に知られているものとしては『夜明けの図書館』があろうか。もっともこちらは、線の柔らかさが私の好みではなく、いまいち食指が動かない。「書物」が輪郭のはっきりした固体であるためか、どうもふわりとした絵柄とあわない、という思いがしてしまう。もっともこれは、繰り返すが、好みの問題だろう。
 少し変わったところでは『鞄図書館』がある。こちら、あらゆる書物を所蔵する鞄が図書館となっている、というシュールな前提のおかげで、どんな現実離れした話も然るべき場所を得ている。しかしこの漫画、完結しているのでしょうか? 

 

 図書館を扱った漫画について触れた以上、図書館を舞台とする、あるいは重要な要素とする小説をも考えてみたい。
 すぐに思いつく、そして私が思うにこのジャンルで圧倒的にトップにくるのは、もちろんエーコの『薔薇の名前』。そもそもこの小説では、書物が極めて説得力のある形で重要な役割を果たしている。これを越える「図書館小説」は、そうはないのではないだろうか?
 しかし、今回気づいたのだが、それ以外の「図書館小説」というと、思い浮かばない。「図書館 舞台 小説」といったキーワードで検索をかけると、なるほど、ある程度の小説は出てくるが、ぐっと心に来るものがない。紹介されているものの中で読了したものもあるが、「それほど図書館が前面に出ていたかしら?」と、首をかしげてしまうものも多い。
 もしかしたら、図書館というのは(ある意味「矛盾している」とも言えるが)小説の舞台になりにくい場所かもしれない。図書館はそもそも事件が起きにくい、というか、むしろ起きてもらっては困る場所の筆頭だからだ。「事件が起こる」としても、「これこれの本を探している」と訪れる人のために、僅かな情報(多くの場合、訪問する人の若き日の思い出)をもとに、司書が推理を働かせて件の本を見つけてくる、というパターンか、何かで人生に迷子ちゃんになってしまっている人に、人情と書物に通じた司書が本を薦める、というパターンが大半であろう。上に挙げた漫画にしても、このパターンのものが多い(行政組織としての図書館の触れるものも多く、それはそれで面白いが)。少し話が飛ぶようだが、図書館を舞台とした小説にはジュブナイル小説(若き日のうちに卒業すべきものとも言える)が多いのも、こうした観点から説明できるように思う。

 こちらをお読みの方で、「これは面白い図書館小説ですよ」というものがありましたら、ぜひぜひご教示ください。

 

M&M's

図書館の話(6)

 図書館にまつわる悪癖としては、どんなものがあるだろう? 閲覧席での居眠りは、明らかに悪癖に入るだろう。高校生、大学生のころは時にこの悪癖に耽ったが、最近はとんと無くなった。そもそも盗難が怖い他、私は案外といびきをかくらしいので、閲覧室でハッと目覚めて、「いびきをかいて人に迷惑をかけたのでは?」などとびくびくしたくない。
 閲覧席での友人同士のおしゃべりもどう見ても悪癖に数えられる。しかし、これ以上に罪深い(?)と思うのは、カップルでやってきていちゃいちゃすることである。真剣に本を読んでいる、あるいは受験勉強に打ち込んでいる身には、なかなか刺激的である。もちろん年をとれば、若い人の振る舞いを暖かい(生ぬるい)目で見るようになったが、高校生の頃などは、「カップルで来て勉強に集中できるんか、ケッ!」と、なかなか黒々としたことを思っていた。僻みである。何にせよ、書きながら悲しくなるが、この悪癖は犯していない自信がある。

 

 図書館に固有の悪癖としては、返却が遅れる、というものがあろう。小学校時代、通っている図書館が遠かったためか、しばしば返却が遅れ、司書の方に注意を受けていた。しかしこれ以上に嫌だったのが、母が返却期日が過ぎた本を返すのを、私に命じることだった。そうすると、母の本とはいえ、司書の方の注意は私が受けることになる。「何で僕が母の代わりに怒られなければならないのだ」と結構反抗したが、いつもなんだかんだで私が返すことになっていた。いい年をして今でも母には様々複雑な感情があるが、その一因はこの点にあるのだろう。
 返却が遅れる理由には、もちろん自分のだらしなさがあるのだが、そもそも本を一種の「財産」のように思っているというのもある。返さなくてもよい(←間違った考えです)財産をもとに戻すのが、もったいような感じなのだ。もう少し細かく言えば、「あと一日手もとに置いておけば、読むのではないか」という思いも強かった。いや、本を返すのが遅れるのは、大半はこうした心理によるものと思う。
 もっともこの点は、ある程度年をとって、「期日までに読まなかった本はとにかく返す」という当たり前の習慣を身につけてから、かなり解決した。絶対に、とは言わないが、本を期日までに返すようになったわけだ。そればかりか、ネット上で確認して、今借りている本について予約をしている人がいれば、期日より早く返すように努力するようにもなった。これは「成長」と言って良いだろう。

 もっとも、本を一種の「財産」のように見做してしまうことに由来する悪癖はもう一つある。私は三つほどの図書館を使っているが、たいていどの図書館でも、貸出冊数の限度いっぱいまで借りている。書くと恥ずかしくなるので具体的な冊数は記さないが、相当数であり、どう見ても読み切れない冊数を借りている。しかし、限度いっぱい借りていないと、何か損をしてしまう気がするのだ。手に入れることのできる財産をみすみす逃している気がする。だから、もちろん必要であったり、強い好奇心に促されて借りる本も相当数あるけれど、図書館に行きそうした本を探した後は、「残りは何を借りようか」と好奇心を刺激する本を探し回るのである。
 もちろんそうした振る舞いによって、数多くの書物と出会いそれなりに多くのことを学んできたのだから、必ずしも悪いことは言えない。しかし、図書館の理念からすれば、これはやはり「悪癖」なのだとも思う。

 と言うのも、図書館の本は、できるだけ書架にあって多くの人の目に触れる機会がある方が望ましいからだ。だから、予約がされていない本であっても、制限回数以上の延長はできないし、例えば私が地元の図書館のA分館で、B分館から届けてもらい借りた本は、たとえ予約が入っていなくても、一度はB分館の書棚に戻さなければならない。予約が入っていない本についてもこの原則を適用するのは、無駄といえば無駄かもしれないが、この理念はやはり尊重されるべきだろう。
 さて、改めて、この理念からするなら、「制限冊数一杯まで常に借りる」という私の悪癖は、控えられるべきだ。読めるかわからない本を中途半端な好奇心から借りることで、誰か別の方と件の本との「出会い」の機会を奪っているのかもしれない。実際のところ、「制限冊数ぎりぎりまで借りる」というこの習慣に、過去に疑問を抱いたことはなかったし、実は今後も変えるつもりはないのだが、それでも多少の後ろめたさは抱き続けることになりそうだ。
 なお、この「図書館の本は多くの人の目に触れる機会があるのが望ましい」という理念(正確な説明かは心もとないですが)については、マンガ『税金で買った本』で学び、意識するようになった。

 

M&M's

(12月3日記)

図書館の話(5)

 今回は、訪問したことのある海外の図書館のことを記す。
 海外で出かけた図書館というと、どれほどになるだろうか。記憶を辿って数えてみると、四つ(だけ)だった(地方自治体の図書館は除く)。もう少し出かけているかと思ったが、案外と少ない。イタリアやオーストリアを観光した折、ついでに少しでも図書館を眺めておけばよかったと、少々後悔している。とはいえ、観光で図書館を訪れることはあまりないだろう。
 もっとも、パリの国立図書館(いわゆるBN)は、観光で訪れてもよいと思う。あの有名な、開かれた書物の形をした建物を広大な敷地の四隅に配した奇抜な、しかし説得力のあるデザインを外から眺めて威圧されてみるのもよいし、中に入って広大な廊下を彷徨い、一般向け閲覧席で勉強するパリの学生たちを眺めてみるのも一興だろう(確か、眺めることができたとは思う-閲覧室内には入れないはずだけれど)。しばしば一般向けの展覧会も行われているし、売店で扱う品も、他とは一味違う。パリ初訪問であれば無理をすることはないが、もう三回目、くらいというのであれば、気分転換に出かけてみるのも良いのではないか。なお、この図書館、日本風に言えば地下一階に研究者向けの、やはり広大な閲覧室がある。ここに入るとどうしようもなく圧倒されると同時に、「生活感」というものをここまで排することができるのかとも驚かされるが、そうした感慨をうまく言葉にすることはできない。
 ところでこの図書館については、最初に訪問した時(もう〇十年前のことだ)に全く勝手がわからず、当時パリに住んでいた友人Mさんに「一杯ごちそうするからお願い」といって同行してもらった。実際、受付の方がおっしゃっていることがほとんどわからず(あるいは、わかっても、なぜそのことが問題となるかわからず)、途中からMさんがほとんど通訳してくださった。これはもう「少しのこと」ではないが、「先達はあらまほしきこと」の典型であろう。この時に、フランスの(そして多くの外国の)図書館で何を求められるかを学ぶことができた。Mさんには心から感謝している。

 パリのBNには何度か行ったことがあるが、長く通った図書館というと、ストラスブール国立・大学図書館がある。「国立」と「大学」の二つが並列となっており、行政上の地位はよくわからないが、さしあたりこのように訳しておく。「ライン宮」とでも訳せばよいのだろうか(Palais du Rhin)、普仏戦争によるドイツ併合直後に建設された壮麗な建築物の向かいにあって、やはりドイツ領時代に建てられたネオ・ルネサンス様式の建築物の中にあり、内部は清潔感があり整然としながら人を暖かく受け入れるような雰囲気に満ちている。パリの国立図書館の閲覧室がよかれあしかれくすんだ雰囲気をたたえているのに対し、こちらは明るい柔らかな光に満ちているように思う(意図的にそうしているような気がする)。こちらは何度となく通ったが、スタッフの方も大変親切で、良い思い出しかない。
 ちなみに、ストラスブールでは市の図書館も相当に使った。日本と違い、映画のDVDを借りることができたのはありがたかった。フランス語の映画を流しているだけでも勉強(した気)になるし、邦画があれば、わが母語を容易に懐かしむことができる。直接の関係はないけれど、日本もこれだけ配信ビジネスが盛んになっているのだから、一定の制限をつけて(例えば公開後十年とか?)DVDを図書館で借りることができるようにしてもよいのではないだろうか? 著作権なら何やら、色々な問題があるのでしょうが、古い映画に関心を持つ方が増えるには有効な手段と考えます。

 さて、短期集中型で訪問した図書館と言えば、ジュネーヴ大学とモンペリエ大学の図書館がある。前者は、国内では見つからなかった資料を読むために別業務の出張のついで三日ほど訪れた。後者は、こちらに収められているとある手稿を読むために訪れ、フランス人の手稿の解読がかくも面倒なことかと痛感した(ポーの『黄金虫』のように、冠詞や前置詞からいくつかの文字を確定し、そこから徐々に類推を重ねていった)。面白い経験ではあったが、正直、手稿の解読に取り組むのはもういいかな、と思っている(私如きでは大きな成果を上げることはできないだろうし)。

 どの図書館についても思い出すのは、受付や司書の方が、たどたどしいフランス語しか話さない海外からの訪問者に対し、とても礼儀正しく親切でいらっしゃったことだ。手稿が典型だが、図書館は時に、「そこにしか」ない資料を所蔵している。そうした資料のために遠路はるばる訪問する人に対し敬意を払うのは自分たちの義務である、といった風情があった。ここ十年ほどで状況も相当変わり、ほとんどの資料が自宅で眺められるようになったが、それ以前の、資料を求めて実際に図書館に足を運ぶという作業が何かしら神聖さを帯びていたのは、そうした司書の方々と話す中で、こちらも自ずと襟を正す思いになったからだろうか。
 あまりに凡庸なことではあるが、時代の変化を巡る証言として、ここに記しておきたい。

 

M&M's

図書館の話(4)

 仕事に就いてからは、もちろん職場の図書館を主として利用するわけだが、その件については大した話はないので省く。
 この時期に記憶に残るのは、出張先で訪れた様々な都市の図書館のこと。もう二十年ほど前になるが、私は結構出張であちらこちらに出かけていたが、そうした折、業務が終わってから呑みに出るまでの間(出張後は一人で呑みに出るのが好きだった)、訪問した自治体の図書館でぶらぶらと時間をすごすことが多かった。
 この作業、案外と発見がある。自分がある程度通暁しているつもりの分野についても、見慣れぬ図書館の書棚で見てみると、案外と知らない本が見つかることがある。あるいは、知っている本でも、普段とは異なる姿のためか、魅力を新たに感じることもある。書棚の前を、サーっと「流す」だけでも、思いもかけない発見がある。
 そのようにして訪れた図書館で、観光でも訪れる価値のあるものを挙げておけば、仙台市民図書館となろうか。この図書館、ならびに併設の(?)「せんだいメディアテーク」の魅力は、ちょっと検索をかければすぐに出てくるので、ここで細かくは触れない。とはいえ、ゆったりとした空間の取り方や、手塚治虫的なデザイン(? 語彙が貧しくてすいません)はとても印象的。近くに行く機会があれば、ぜひ訪れてみていただきたい。

 ちょっと話は変わるけれど、自治体による図書館ではないが、小樽商科大学の図書館も印象に残る。この大学、小樽の街から急な坂を上ったところに位置し、図書館のいくつかの席からは、海がきれいに見える。好天の日、あまり人のいない古びた図書館の窓際で古い資料をめくりながらふと青い海に目をやると、「また見つかったよ 何が? 永遠が」と独り言つ気持ちになった。日本全国の大学図書館をすべて回ったわけではないから断言はできないが、あの小樽商科大学の閲覧席は、日本でも有数の素晴らしいものではなかったか?
 小樽商科大学からの帰途は、「地獄坂」という急坂を下るのだが、まだ明るいうちに帰ると、穏やかな海が見える。通学路から穏やかな海を眺めることができる大学というのは、どれくらいあるだろうか? (神戸大学がそうだったような気もする)
 ちなみに、小樽商科大学の知人に聞いたのだが、冬、雪の降った朝の地獄坂にはスキーのシュプールがあるそうだ。車が来る危険を考えると、「嘘だー」とも言いたくなるが、案外本当かも、と思わせる。それくらい急な坂なのです。こちらも、小樽観光の機会があれば、訪れてみてください。

 

M&M's
(11月23日記)

図書館の話(3)

 大学に進学してからは、やはり大学の図書館を主に利用するようになる。もっとも、この時期の読書については、あまり明確な記憶がない。「何を読んだ」という記憶が薄いのだ。オーケストラ活動やアルバイトにうつつを抜かし(あとは麻雀)、読書量が減っていたことは間違いない。あの頃、もう少し系統だって読書をしていたのなら、と、反省する思いは強いが致し方がない。人生に取り返しはつかない。
 再び読書が生活の中心となるのは、やはり大学院に進学してからだろうか。学生オーケストラは引退し、一緒に麻雀をしていた友人も社会人となり、共に卓を囲むことも減る。一人の時間が増えれば、自ずと読書が生活の中心になる。
 実際にこの時期に利用していたのは、私の住む自治体の中央図書館だった。もちろん、大学の図書館も折に触れて使うのだが、どちらかというと自分の仕事のためであり、趣味の読書となると、公立の普通の図書館の方が使い勝手が良かった。借りることのできる冊数が八冊と多かったこともあるが、加えて、それなりに立派な視聴覚コーナーで、備え付けのLDやDVDを観賞できたことが大きい。この時期、私は、週のうちのかなりの日、朝、件の図書館に行き、自分の仕事と趣味の間の書物などを適当に読み散らかした後、視聴覚コーナーで、有名なオペラを片端から観ていったのだった。私は決してオペラ・ファンなどとは言えないが(いわゆる「オペラ・ファン」の知識には舌を巻くことが多い)、オペラについて一応の知識があるのは、この時期の経験のおかげであろう。とはいえ繰り返しめくが、読書はこの時期も系統だったものではなく、そのためか、何を読んでいたのか記憶が曖昧となっている(相当に読んだことは間違いないのだが―ああ、書いていて思い出した― ドナルド・キーンの『日本文学の歴史』(現在、中公文庫から『日本文学史』として出ているもの)は、通読したように思う―時間があったからできたことだ)。

 もっとも、この時の経験から、勤め人の方のために、半年かできれば一年の、図書館に通うための休暇があれば、と夢想するようになった。仕事と関係のない系統だった読書こそが、人の魂を豊かにするに違いないと確信するからだ。健康寿命がここまで延びた(そして、さらに延びる可能性がある)現在、「人生の道の半ばで」魂を養う時間を持つことは、広い意味で望ましいと思う。恐らく実現はしないだろうが、「望ましい選択肢」として、こうした制度があることを夢想する程度でも、心を豊かにしてはくれまいか。

 

M&M's

(遅れに遅れて11月23日記述)

11月なのに…

11月なのに夏日連続です。

25度と26度とが交互に来ては私の部屋を30度にしています。

本気でもう夏日はいいです。

弱っている体に暑さは大敵です。

 

前回の記事でコロナウイルスのワクチンを接種したと書きましたが、あの後にまさかの副反応で1日目が39度5分。

2日目が38度5分となかなかの数値をたたき出しました。

結果無い体力がさらに落ちて、また寝込むはめに…。

体力無い時ってこんなもんなんでしょうね。

39度出した時は真夜中の2時頃で、これ以上あがったら流石に救急車を呼ばないとまずいかなと焦っておりました。

身体は痛いし寒くて震えるしで一人の夜がほんとに心細かったです。

一人暮らしの気楽さとは裏腹に、真夜中に具合を悪くすると本当に嫌になります。

とにかく、また起き上がれるようになったので、体力作りを頑張りたいです。

 

記事の方は体調が良ければという感じになるかなぁ。

出来る範囲で善処したいです。

ではでは、短いですが終わります。

 

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